絶対に勝てない勝負というものがこの世にはある。

昔のそのまた昔、小さいあたしに師匠が教えてくれた。
それは八百長や贔屓と言った類いの人間の気分が生み
出すものではない。ましてや圧倒的な実力差のためで
もない。そしてその理由はそのどれもの性質を取り込
んでもいるのだという。
どうして?ワケが分からなくて尋ねると師匠は笑った。
とても優しい笑顔だった。

ねぇイーピン、幽霊と生身の人間
勝負をしたら君はどちらが強いと思う?

白い手のひらが滑るように頭を撫でて、心地よくて眠
りそうで。微睡みの縁でゆらゆらしている最中で聞い
た言葉だ。一般的な男の声より高く掠れた声は師匠の
大好きなところのひとつ。あたしの宝物のひとつ。
ただその時はどこか抑えたような不自然さがあって、
とても気になったのだけど心地よさに逆らえず答える
ことが出来ないまま瞼を落とした。

そんなのは生身の人間に決まってる
だって幽霊なんて見えないもの


あたしの心が聞こえたのかはどうかは分からない。
でも師匠は「君には少し早かったかな」と呟いた。
とても苦しそうな声だった。











【デキレースと純情】













涙はいくらでも溢れてくる。
地球環境を気にするなら女の涙だって気にして欲しい。
こんなペースで流れていたら、あっという間にイタリ
アなんか沈没してしまう。だって今顔を埋めてる真っ
黒のスーツも白いシャツも嗚咽と一緒に爆心地みたい
な染みをぐんぐん広げていく。スーツの持ち主である
その人は、黙ってあたしにされるがまま。柔らかい手
のひらで丁寧に頭を撫でてくれる以外は。



「だからやめとけ、って言ったろ」



ひっぐ。
酷い音で喉を鳴らすとその人は言った。
マフィアなんかにならないって言ってた小さなお兄さ
んはいつの間にかイタリアで裏の顔になっていた。
けど、根本はなにもかわらない優しい人。だから選ぶ
んじゃないか、と言われるとそんな気もするくらいだ。
ただ、いい加減にしろと言われたらごめんなさいもう
来ませんと言うしかないくらいにはこのシャツをびし
ょ濡れにしてるのも本当で。落ち着くといつも後悔す
るのに、いつもこの場所に来るのはやっぱりこの人が
一番あたしの気持ちを分かってくれるって甘えてるか
らだ。



「だいっきらい、あんなひと」



そうして無茶苦茶な八つ当たりを吐き捨ててまた泣き
崩れる。
いい加減レディになりなさい。
あたしがあたしに言ってやりたい。
フリーの殺し屋をやめて、雲雀さんの直属になります。
あたしの決意に対してのやめておけ、は何もこの人だ
けの言葉じゃない。正直何人に言われたかも覚えてない。

群れるのが嫌いな人だよ
冷たいし仕事には容赦がない
女だからって言い訳の通じる男じゃない

ことごとく蹴散らしたから、反対の理由のバリエーショ
ンは全種類覚えている。恭弥さんの一番近くにいること
になるんだよ、と苦々しく念を押した沢田さんの言葉は
唯一あたしの決意を揺るがした。
そうして師匠の言葉も



「気持ちは分かるけど、ディーノさんも必死なんだ。そ
れも考えてあげて?」

「そんなの言い訳にならないもん…」

「イーピン」



そうかイーピンも幽霊と勝負をするのか。
昔の他愛もない話を思い出すのは意外と難しく、時間が
かかった。頭の奥の普段は使わない引き出しは散らかっ
た部屋からピアスを見つけるようなものだ。
着いて行ったパーティーで突然いなくなり、次の朝にけ
だるい姿を見つけるのは日常茶飯事のこと。
表情を豊かにする雲雀さんを隣で見続ける。変わりゆく
というよりは違う姿を見るのは胸が締め付けられるよう。
好きな人の隣は天国でありつつ地獄にも直結していた。
幽霊のくだりは分からない。でも勝てない勝負というも
のの正体はわかった。悲しかな理解した。



「雲雀さんに愛してもらえてるのに…」



恭弥なら、怒って帰っちまった
ディーノさんの真っ赤に腫れた頬を思い出す。雲雀さん
に張られた頬だ。
体を砕く一撃など受けるのは簡単な話。どんなにあたし
があの頬を欲しがってもそれは絶対に手に入らない。

どんなに近くにいたところであたしにこのレースの出場
権は与えられないのだ。









End.



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