あれは5月の末頃だっただろうか。酷い雨の晩だった。
屋根、窓はもちろん地面や草木と容赦なく叩き付け「世界
を溶かすような」という表現がぴったりの言葉だった。
恵みと呼ばれる一方、こんな攻撃的な一面を持つことも知っ
てあの静かさの中に震撃な顔を持つ彼が雨を守護するのか、
とひそりと思う。



「そう迷うことでもない、すべて消せば済むことでしょう」



闇が喋った。
否、闇の中にいる人が喋ったのだ。普段は女の姿を借りてつ
つましやかに使命を果たしている彼は今日ばかりは饒舌に口
をきく。すべては彼女から聞いていたのだろうが、それにし
ても今回はやけに耳が早い。



「すべて?」

「そう、すべて」



彼の執着するもの、彼の心を縛るものがあるのならば
すべて最初からなかったことにすればいいだけのこと。
広い部屋にあの特徴的な笑い声が響く。かつて感じたような
不快感や違和感を抱くことも今はない。



「きょうや、ディーノを忘れちゃうの?」

「そうですよ」

「…ふざけんな!オレはぜってぇ反対だからな!!」

「何故です?彼を忘れてしまえばあの人を苦しめるものは何
もない」



だからこれは漠然とした答えではない。
そして超直感でもない。



「ツナ、お前の意見はどうだ」



ふられた声に俺は雨音に耳を傾けるのを、やめた。



「オレは───」



嵐が哭く以外、沈黙を漂わす部屋の空気をオレの声だけが揺
らす。同時に目の前で風に耐えていたマロニエの葉が一枚、
むしられるように散った。















【太陽の下・前編】


















僕の世界から色が一つ消えた。
不思議なもので、消えたそれはとても華やかな色彩だったに
も関わらず僕の景色はそれほど変わらない。
相変わらず黒と白、それに空の色と赤ばかりが目立つ。



「恭弥さん」



縮めて抱えていた膝の間から顔をあげた。途端強烈な屍臭が
鼻にながれこんできたが、一瞬で麻痺し鉄臭いのに紛れてわ
からなくなる。真っ赤に汚れた視界はその向こう側がとても
見にくく、思わずスーツの袖で拭う。ひとふきでクリアにな
る視界には見慣れた顔がひとつ浮かんだ。



「何しに来たの」



純粋な疑問だけどお前が言うとつっけどんに聞こえると言っ
たのは山本だったか。その言葉の通り、僕に負けず劣らず細
身で外見と能力の釣り合わない彼は困ったような顔をして笑
った。



「迎えに来たんだ」

「君が?直々に?」

「そう」



その顔が影って見えたのはきっと場所のせいだ。ビルに囲ま
れやっとの思いで出来たスペースは太陽の入り込む隙間なん
かなかった。
華奢な指が頬に触れて跳ねた血を拭う。時間のせいか、そ
れとも色々な血を重ねて浴び続けたせいか。液体であるはず
の本来の姿を残している場所はどこにもない。
僕は隙間なく血まみれだった。



「久しぶりの仕事、どうだった?」

「仕事?」



差し出された手にも投げられた問いにも答えず、なぎ払って
足に力を込めると立ち上がる瞬間にぐんと体に重いものがの
しかかる。長くベッドの生活を強要されたせいで体は確実に
鈍っていた。
でもそれはそこらの草食動物を咬み殺すにはなんら不自由は
ない。
僕の強さとはそういうものだ。
自惚れではなく、とても並を外れていたものからその『とて
も』が外れただけ。そしてその『とても』はかつてとは違い、
時間と共に取り戻せる。



「言葉を間違えるなよ、綱吉。こんな雑魚、肩慣らしにさえ
なりはしないんだから」

「あなたらしい」

「次こそはちゃんと仕事を用意するんだね」



ベッドに縛りつけられる生活から脱したのはほんの3日前の
こと。
休んだ時間の3倍の時間が筋肉の回復には必要だというが誇
張もいいとこだ。とは言え、カンやタイミングなど実践でし
か取り戻せないものは多いのも事実。



「そうは言っても、ディーノさんを填めたファミリーはもう
隼人と骸が根絶やしにしたんだよ」




最早ただの肉塊へとなり果てたそれをつま先で蹴りあげる。
僕は顔をあげた。綱吉の顔に困惑はなかった。その表情は和
やかな今までと違い、確実に僕を威圧する意思を持っていた
。僕に屈伏を望む馬鹿共はたった25年の人生にはいすぎる程
にいた。それは時には両親であり教師であり、同僚でもあっ
た。



「何が言いたいの」

「あなたの言う『仕事』が何か、ってオレなりにも考えたん
だ」



僕はいつものように彼を睨む。草食動物はいつしか前ほど僕
を恐れなくなったが、だからと言ってやめるものでもない。
可能な限りの殺気を両目に押し込んで、僕は自分のボスに向ける。
でも彼はなんでもなかったかのようにため息をついただけで
僕の望む答えは何ひとつくれない。
それどころかどんどん僕を哀れむような表情に変わっていく。
ぴん、と固く張り詰めた空気をほぐそうとしているみたいだ
った。それが嫌でたまらなく、必死に抵抗するも結局ぱらり
と音を立てて緩んでしまった。
こうなるとボスのペースからは逃れられない。



「明日は暇かな」

「………」

「あなたに任せたい仕事があるんだ」



遠くにパトカーのサイレンが響いた。音の響き方からきっと
メインストリートだろう。こっちに来るのかと思わせ、急
なブレーキと共に遠ざかって行く彼らはたった一本奥へ入っ
た道の向こうで今何が起きているのかも知らないのだ。
それでも、行こうと珍しく強引に手を引かれて結局僕は明確
な拒否の言葉を告げるのを忘れた。







ボンゴレの城へと続く山道の入口の側に今の住まいはあった。
元々は便利さから街の一角に建つ目立たないマンションの一
室を買い取って暮らしていたのだけど、病院での拘束生活か
ら抜け出すともうそこは引き払われて、家具を始めとするす
べての私物はこの部屋へ移されていた。
住人が
少なく静かと最低限僕の性格に配慮された選考ではあったが、
こんな狼籍の後ではすべてがくだらないことに思える。
ポケットから裸の鍵を取り出してさっさと捻る。無駄に分厚
い扉を開けた瞬間、漂う香ばしい匂いに思わず眉をしかめた。



「お疲れさまです」

「…まだいたの」



僕の姿を認めた瞬間、側に寄って頭を下げるのは見慣れた欧
風な顔立ちの部下ではなく、ずっと昔に従えた日本の恐面だ。
草壁の存在もまた、引越しと同時に焼かれた余計な世話だっ
た。中学卒業に伴いイタリアへ渡った僕に対し、腹心と言う
べき彼はごく普通の高校へ進学した。その後は家業を継いだ
と聞いていたのに



「食事の用意が出来てます」

「毎日毎日、君も飽きない」



何故と聞けば僕の世話をと呼ばれたのだと言う。言葉も通じ
ない土地にそんな理由で来る草壁も草壁だがそれ以上にこん
なことにカタギを巻き込む連中にも呆れた。
馬鹿な気を起こさないように、との見張りの意味もあるのだ
ろう。退院と同時に思いっきり不摂生をしてやろうとした僕
の思惑も見事に潰された。
中学の時から誰かに面倒をみてもらう生活などしていなかっ
た僕は常に縄張りに「誰か」がいる感覚と退院後の苛立ちに
任せ何度か強行手段にも出たのだが草壁は涼しい顔で家事を
こなしていく。耐えきれずにホテルに泊まったこともあった
がそれこそ無駄な抵抗だった。



「シャワー浴びるから」



無機質な銀の足をはやすテーブルに並ぶ料理を一蔑し、椅
子にジャケットだけを預けて僕は言い放つ。そんな彼らを拒
絶する方法のひとつと僕はこの部屋で食事を取ったことがな
い。彼がイタリアの地で骨を折りながら作る和食はすべてゴ
ミ箱へ消える。
最初の方こそ食欲がないのかと白粥になったり煮込み料理に
なったりしたが食べる意思のないと悟ってからは彼はただ僕
の気まぐれを根気よく待ち望んでいる。
今日も背中越しに委員長と呼ばれたが、一度も振り向かずバ
スルームへ閉じ籠った。ここまで入ればもう草壁は来ない。
硬い血がこびり付いた服は脱ぎにくく、途中で面倒臭くなり
結局その格好のまま蛇口を捻った。
ぷしゃあと勢い良く吹き出した水は最初は冷たく、その内少
しずつ僕を温めた。張り付いたシャツの下の粟立った肌も徐
々に滑らかな物に戻る。そしてそれは僕にとって一番恐ろし
いことでもあった。






翌朝、ボスは昨日別れ際に告げた通り運転手兼ボディーガー
ドの子供を一人だけ連れてマンションの前へ訪れた。もちろ
ん行く気などなかったのだけど、綱吉だけならいざ知らずあ
の無敵の赤ん坊が一緒だったのではとても言い逃れられない。
僕に仕えると言った言葉に違わず草壁も抵抗をしてくれたも
のの、正直何の足しにもならず。僕は派手なイタリア国産車
の後部座席へ放り込まれた。



「休日出勤だ、この貸しは高ぇぞ、ヒバリ」

「文句ならボスに言えばいいじゃない」

「死にたがってる奴にハンドル任せる馬鹿がどこにいる」



荒っぽいギアチェンジは嘘のような急加速を生む。思わぬ衝
撃に言葉を詰まらせると何か勘違いをしたボスが安全運転と
釘を指した。運転席の子供が承諾したように肩をすくめアク
セルから足をどける。それでもスポーツカーと称されるそれ
は懐かしい日本車や独創的な顔のドイツ車を一気に抜き去り
長い道路を一気に飛び出す。見慣れた古い町並みを見れたの
は乗り込んでから最初の30分だけだった。
窓の外はあっという間にエメラルドグリーンの水平線へと姿
を変えていた。
港が近いのか、大小様々な船がこちらに縁を向けて進んでく
る。ディーノの一件で戻るまでしばらく本土での仕事が多か
ったからウミネコの声を聞くのも久しぶりだ。そういえば彼
も国外から戻るたびに同じことを繰り返していた。

シーライドラインの爆走の果て、車は減速もせずに車一台が
ギリギリ通れるような路地に頭を突っ込んだ。そのまま森の
中へ入るのかと思えば少しわき道にそれ、見慣れない建物の
前で今度こそ停まった。



「着いたぞ」

「何なの、ここは」



森の中、という事もあって別荘風の建物には見える。が、別
荘と呼ぶにはいかせん大きすぎる。使用人を加えたとしても
まだ余るだろう。それこそ小さなファミリーなら拠点として
もおかしくないくらいの、絶妙な大きさだった。



「ディーノさんの、遺言なんだ」



説明を求めて見つめた綱吉の口が思わぬ単語を紡いだ。と
たんに僕の体を正体も知れない震えが襲ったが、彼らの手前。
無理矢理抑えた。冷静を装い説明を求めても彼は笑うばかり
で何も答えてはくれない。
ディーノはあの時、誰もいないあの場所で僕が殺した。
あの後、僕を拒むぐらいの余力はあったらしいけど、僕たち
を最初に発見したのは獄寺だと聞いた。
そもそも、彼は指揮官として指示はしても鎮圧には参加をし
ていなかったはずだ。

じゃあどうして?

答えるものはいない。
荒っぽく引かれた手首がただ痛んで僕を引き戻しただけだっ
た。



「ほら、入れ。お前の仕事が待ってるぞ」



子供とは思えない力は僕を薄暗い入り口へと引きずり込む。
閉ざされていたと思っていたドアはいつの間にかぽっかり口
を開けて僕を待っていた。
埃の匂いを警戒して息を止めたのは一瞬だった。中は予想外
に清潔な空気と内装を保っていた。窓ガラスはキレイに磨か
れ、長い廊下やドアは新築の色を保ったまま輝いている。そ
して、入ってすぐに飛び込んできた螺旋階段は僕の知ってい
る場所によく似た造りをしていた。

ふと、人の気配を感じた。かすかに軋んだ音に確信して隠し
ていたトンファーを組み立て、二階を見上げた。
そうして僕は今日何度目かの驚きに目を見開いた。


二階の手すりからこちらを覗いていた子供。
くたくたの制服を着た鳶色の瞳を持ったその子の髪は


ぼくが無くしたはずの色をしていた。









後編へ続く。





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