涙を降らすのは雲の役目。
ひと度カオを覆えば、どんな輝かしい笑顔もたちまち
に涙の世界に濡れる。

しかし、ふと思う。
もしかして太陽はいつも泣いているのではないかと
流した瞬間に蒸発してしまうから誰も気付けないだけ
なんじゃないかと

そうして床に転がるマグから流れた茶色の液体は僕の
目の前でゆっくりと冷たいフローリングの上を広がっ
ていった。










太陽のナミダ











いつもと雰囲気が違うことにはすぐに気付いた。
もちろん、ディーノはそれを隠してはいたけれど、気
付かない程僕は鈍くない。そこにはディーノに隠し事
が下手だという因子もあったけど、もともとその内容
を詮索して、彼をどうこうする気など僕には毛頭なく、
その理由にもたいした興味はなかった。


僕のしたことは雨水をたっぷり吸い込んできたディー
ノが部屋にあがるのを許してやった。ただそれだけで。
タオルをくれてやったのだって床を濡らして欲しくな
かっただけだ。
他に意味なんか持たない、のに──




「…いい加減、苦しいんだけど」



すでに10分、変わらない体勢に焦れて声から不快がに
じむ。動かないのは体だけではなく、口も同じだった。
この問いかけも何回目かと考えるといい加減うんざり
した。それでも、覆い被さり包みあげるように回され
た腕が弛む様子は全くない。
巨漢、というわけではないが、決して小柄ではなく。
ましてこれだけの力で抱かれていると脱出は不可能に
近い。
いつもなら、すぐに笑いながら腕を弛めるのに
厚手のジャケットから滴る水分がワイシャツを通り抜
け、触れた所から肌が凍えていく。ふつ、とあわ立つ
肌の感触はきっとディーノにも伝わっている。
それに背中を押されて、震えは全身へと広がり出した。
が、それよりもっと酷く。寒さなんて言って誤魔化し
きれないガタガタと響く震えに結局僕はそれ以上彼を
責める言葉をなくしてしまう。



「ひば…り…」



歯が噛み合わされる細かな音にまぎれた声は酷く聞き
取りにくく、柔らかい金髪はぐっしょりと濡れて、い
くつも細い筋を白い顔に残していた。
色の失せた口唇がつむいだのは僕の名前
でも、僕を呼んだわけじゃない



「…今度は何人?」



更に加えられる力に骨が軋み、息が詰まる。

彼がどんな世界で生きるのかは想像でしか知らない。
僕が暮らす日常よりはほんの少し野蛮で、スリリング
なのだろうけれどディーノくらいの腕を持つ人間が傷
つくような場所でもない。
ただ、おかしなことに彼はそんな所でわざわざ弱い奴
らと群れる。
独りでいればなんてことない場所で足でまといを増や
し、そして手足をなくしたかのように泣いて傷付く。



「…ひとり」
「…血の繋がりでもあったの?」
「初めて、部下になった奴だったんだ──」



伝染した震えが身体すべてを支配する。
と、突然に僕を抱いたまま彼の膝が折れて床にへたり
こんだ。
彼に渡そうとしてそのまま落ちたカップだったものと
その中身だったものが視界の端に引っ掛かるが、すぐ
に見えなくなくなってしまった。
視界は雨とは違う濡れ方をした鳶色に引き込まれてい
く。

部下をなくして、崩れそうな何かを必死で守ろうとし
て、僕にすがりついてきたのは今までも何度かある。
でも、こんなことは初めてだった。



「……慰めて欲しいなら他を当たりなよ」
「他って、どこ」
「知らないよ」



だから、言葉でしか突き放す事ができなかったんだ。
きっとそうだ。



「泣き虫は群れる奴と同じくらい嫌いだよ」
「………」
「こんなだったら、馬鹿みたいにへらへらしてる君の
方がずっといい」



何度も咬み殺してきた、怯えた瞳を見ない振りして、
素早くキスを落とせば弛んだと思った腕がまたきつく
なって咬みつくように口唇を奪われた。
時折触れる冷たい頬と驚くくらい熱い涙。
それに馬鹿みたいに彼の名前を繰り返す自分の声。
すがりつくこどもみたいなこの人を抱きしめてやるの
が普通なのだろうとぼんやり考えたが、考えただけで
僕の腕はぴくりとも動かない。

性急に押し倒された床の上でなんでこんなことになっ
てしまったのか、その答えを探しつつ


このナミダを他に誰が知っているのだろうと
静かに目を閉じた。








End.